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妻、母、愛人ーー男性性はなぜ女性を分けてきたのか? ステータス、ケア、エロスという三つの機能

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男の「一番好き」は、なぜこんなにもわかりにくいのだろう。

ものすごく性的に惹かれている女性がいるのに、その女性とは結婚しない。 妻を「一番大切な人」と言いながら、妻には話せない弱音を別の女性には吐く。 長く付き合った彼女ではなく、出会って間もない「家庭的な女性」と結婚する。 恋人には強がるのに、母親には何もかも世話をしてもらう。 「本命」と呼ぶ女性がいるのに、性的には別の女性を激しく欲望する。

女性の側から見ると、こうした男性の選択はしばしば不可解に見える。 結局、誰が一番好きなのか。 一番好きなら、なぜその人を一番欲望しないのか。 一番大切なら、なぜその人に一番弱い自分を見せないのか。 結婚したいほど好きなら、なぜ「めちゃくちゃタイプ」の女性とは結婚したくないのか。

そして、ときに女性はその不可解さを、自分自身の価値の問題として引き受けてしまう。 「私には何が足りなかったんだろう」 「あの女性のほうが、私より愛されていたのだろうか」 「妻に選ばれたということは、私が一番だったということなのか」 「身体だけを求められた私は、彼女より下だったということなのか」

そうではない。ここですっぱり「女性の順位」という考え方そのものを捨てたほうがいい。 なぜなら、男のなかでは最初から、女性たちは同じ一つの物差しで比較されていないからだ。

妻。母。恋人。愛人。娼婦。本命。遊び。 男社会の中で、これらはすべて違う関係であり、違う歴史を持ってきた。 男性性の側から見ると、そこには一つの共通した構造がある。男性が一人の女性と一人の人間として関係する以前に、女性に異なる「機能」を割り当てるという構造である。 つまり、従来の男社会のなかで、女性は、統合された人格をもった尊重すべき一人の個人ではなく、「男にとって必要な機能の束」として扱われてきたということである。

その機能は、大きく三つに分けられる。 ステータス、ケア、エロス、の三つだ。 女性から選ばれることで、男として認められる。 女性にケアされることで、男であることから休む。 女性を欲望し、欲望されることで、自分が性的な身体であることを確認する。 そして重要なのは、この三つが、一人の女性に統合されている必要はないということだ。

妻にはステータスを求める。 母にはケアを求める。 愛人にはケアとエロスを求める。 本命にはステータスとエロスを求める。 遊びの相手にはエロスを求める。 もちろん、一人の女性が複数の機能を担うこともある。 しかし構造として重要なのは、男のなかでは、それらが分離可能だということである。

だから男性は、ある女性を「妻にしたい」と思いながら、別の女性を激しく欲望できる。 妻を愛していると言いながら、母親にもっとも深く依存できる。 家庭を大切にしながら、愛人の前でしか弱音を吐けない。 本命を「一番大切」と呼びながら、性的欲望は別の女性へ向けられる。

女性の側から見れば、矛盾している。 しかし、ステータス、ケア、エロスという異なる機能が、異なる女性へ配置されていると考えると、この奇妙な矛盾には一本の線が通る。 女性のタイプが分裂しているのではない。 男性の欲望が分裂している。 この記事で考えたいのは、その分裂を作っているものとしての「男性性」である。

男性性は、男性の内部を“分割統治”する

男性性の規範は、男性に「強くあれ」と命じる。 自立しろ。泣くな。弱音を吐くな。仕事ができろ。稼げ。決断しろ。守れ。頼るな。傷ついても平気な顔をしろ。 この規範に適応するためには、自分の内部にあるものをいくつも切り離さなければならない。

寂しい。誰かにいてほしい。抱きしめてほしい。怖い。自信がない。疲れた。甘えたい。何も決めたくない。誰かに食べさせてほしい。自分の話を聞いてほしい。性的に欲望したい。欲望されたい。自分には価値があると確認したい。 こうした欲求そのものが男性から消えるわけではない。ただ、「男である自分」の内部に置いておくことが難しくなる。

強さは自分のものにする。弱さは外へ出す。 自立は自分のものにする。依存は外へ出す。 達成は自分のものにする。ケアされたい欲求は外へ出す。 社会的な身体は自分のものにする。柔らかい身体、寂しい身体、触れられたい身体は外へ出す。 しかし、外へ出した欲求はなくならない。 そこで女性が必要になる。 男性性によって自分の内部から追放したものを、女性との関係を通して回収するのである。

ケアされたい欲求は、ケアしてくれる女性へ。 柔らかさは、柔らかい女性へ。 性的欲望は、欲望の対象になる女性へ。 男として認められたい欲求は、自分を選んでくれる女性へ。 つまり、男性性が男性の内部を分割し、その分割された部分を、女性の機能として外部に配置する。 妻、母、愛人、本命、遊びというカテゴリーは、この外部化と深く結びついている。

女性は、男性性の「証明書」になる

まずステータスである。男性性は、自分一人では完成しない。自分で「俺は十分に男らしい」と思えば終わるものではなく、他者から承認されなければならない。その承認装置の一つが女性である。

女性から欲望される。恋人がいる。セックスをしている。結婚する。妻がいる。子どもがいる。家庭を養っている。これらは単なる私生活上の出来事ではない。男性社会のなかでは、「男として順調に進んでいる」ことの証明になる。

だから女性から選ばれることには、二重の意味がある。一つは、その女性から愛されること。もう一つは、女性から選ばれる程度には価値のある男だと、社会に証明すること。 後者が入った瞬間、女性は恋愛相手であると同時に、男性性の証明書になる。

「彼女いるの?」「結婚しないの?」「子どもは?」。こうした問いが男性に刺さるのは、単に恋愛や家族について尋ねられているからではない。その背後に、「お前は女性から選ばれる男なのか」「家庭を持てる男なのか」「一人前の男なのか」という査定があるからだ。

だから恋愛における「モテ」は、女性との関係だけで完結しない。女性に欲望されることが、男性から承認されるための証明書になる。 男が女性を欲望しているように見えて、その欲望の観客席に男がいる。 妻を持つこと。家庭を持つこと。父親になること。これらも男性性のステータスになる。結婚は男性を男性性から解放するとは限らない。むしろ、「妻のいる男」「家庭を持つ男」「父親である男」という、新しい男性性の資格を与える。 妻は、その資格を成立させる重要な存在になる。

女性は、男性性から休ませてくれる

しかし男性は、二十四時間ずっと強く、自立し、働き、決断し、競争し続けることはできない。身体は疲れる。傷つく。寂しくなる。怖くなる。誰かに触れてほしくなる。何もしたくない日もある。そこで必要になるのがケアである。

食事を作ってもらう。話を聞いてもらう。仕事の愚痴を言う。看病してもらう。疲れた身体に触れてもらう。傷ついた自尊心を回復してもらう。「大丈夫」と言ってもらう。何もできない状態でも、そこにいていいと認めてもらう。ここでは女性は、男性性を証明する存在ではない。男性性を一時的に解除してくれる存在になる。

外では働く男。家では休む男。 外では弱音を吐かない男。家では妻に愚痴を言う男。 外では自立した成人男性。実家に帰れば母親から「あの子」と呼ばれる息子。 男性性が男性に強さを要求するほど、その強さを解除する場所も必要になる。

女性への依存と男性性は、こうして裏で結託する。男性性が強いほど、自分の内部で認められない柔らかさを、女性との関係に預ける必要が出てくる。 男らしい男ほど女性から自立するわけではない。男らしさによって自分の依存を否認するほど、その依存は見えない形で女性へ向かう。

ここで重要なのは、ステータスとケアが同じ女性から供給される必要はないということである。 妻が男性性のステータスになればなるほど、妻の前でも「夫」「父親」「一家の大黒柱」という男性性を演じなければならなくなる。妻に頼られる。父親として決断する。家庭を支える。稼ぐ。頼れる夫でいる。 そうなると家庭は、男性性から休む場所ではなくなる。家庭が「第二の職場」になる。 外では労働者。家では夫。子どもの前では父親。どこへ行っても役割がある。すると、「何者でもなくていい場所」が別に必要になる。ここから女性の機能分離が始まる。

大人になっても、母が、ケア担当

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