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「彼女が欲しい」のに、女を好きではない男たち

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先日、こんな趣旨のツイートが炎上していた。

「彼女できそうなんだけど、正直気が狂いそう。 好きじゃないのに告白するのが辛すぎる。 でも非モテが通る道だから気合い入れないといけない」

読んで、しばらく意味がわからなかった。 好きじゃない。なのに告白する。しかも本人はそれを「辛い」と言っている。この人は、一体、何をしているのだろうか?

この人は恋愛をしようとしているのではない。非モテという自己像を治療しようとしている。その治療に女性を使おうとしているのである。 だから、相手を好きである必要がない。必要なのは「彼女ができた」という事実だ。彼女ができれば、自分は非モテではなくなる。 告白できれば一歩前進。付き合えれば成功。セックスできればさらに前進。女性との関係が全部、自分の男性性を証明するためのスタンプラリーになっている。 他人の人生を使った自己肯定感のリハビリである。

モテの話ばかりする人間は、驚くほど女に興味がない

モテない男が「どうすればモテるか」を語っているのを見ていると、いつも不思議に思う。あれだけ女、女、女と言っているのに、驚くほど女に興味がない。 関心があるのは、どうすればモテるか。どうすれば女から評価されるか。どうすればデートできるか。どうすれば付き合えるか。どうすればセックスできるか。どうすれば「非モテ」ではなくなるか。 全部、自分の話である。

女はどこにいるのか。いない。「女性」という巨大な採点機だけがある。その採点機に自分を投入して、高得点を出してもらいたい。 だから清潔感を整える。筋トレする。会話術を学ぶ。マッチングアプリを攻略する。デートの正解を覚える。告白のタイミングを研究する。 延々と女について語っているようで、実際に見ているのは鏡に映った自分だけだ。 女について考えているのではない。女という鏡を使って、自分の価値を測り続けているのである。

モテる男は、女に好かれる以前に女が好きである

ちょうどこのツイートを見たとき、宗教人類学者の植島啓司の新しい本を読んでいた。植島は、天性のモテ男だ。その彼が本の中で、ぼくはすれ違うだけで70%くらいの女の子に惚れてしまうんだ、というようなことを語っている。 この落差には笑ってしまった。 一方では「好きじゃない女に告白しなければならなくて辛い」と言っている。もう一方では、道を歩いているだけで、また女の子を好きになってしまうと言っている。 天性のモテ男と非モテは、口説き方が違うのではない。 女を見るときの出発点が違う。

モテる男は、女に好かれる以前に女が好きなのである。 そんな当たり前のことが、「どうすればモテるか」という話からはすっぽり抜け落ちている。 モテる服。モテる髪型。モテる会話。モテる店。モテるプロフィール。モテるLINE。そんなものを何百個覚えるより先に必要なものがある。 惚れる才能である。

惚れるとは、他人に負けることである

惚れるというのは、じつはけっこう格好悪い。 こちらの都合などお構いなしに、誰かが魅力的に見えてしまう。会いたくなる。声を聞きたくなる。返信を待ってしまう。笑ってくれたら嬉しい。どうでもいい一言を何度も思い出す。 自分の感情の主導権を、少し相手に渡してしまう。 惚れるとは、他人に負けることだ。

妙にこじれたプライドは、この「負け」に耐えられない。自分のほうが好きなのは嫌だ。自分のほうが夢中なのは嫌だ。相手を素晴らしいと思って、自分が下に置かれた気分になるのは嫌だ。振られて傷つくのはもっと嫌だ。 そして、もし、自分が負けるなら、相当に「上位の女」じゃないと嫌だ。

だから、惚れる前に値踏みを始める。顔は何点か。年齢は。学歴は。性格はどうか。自分と釣り合うか。付き合うメリットはあるか。自分でも落とせるレベルか。 「俺が惚れる価値のある女か」と審査する。 惚れる勇気すらない人間が、審査員席に座っている。 他人に魅了されることには耐えられない。だから、自分が相手を評価する側に居座る。 これはプライドが高いのではない。プライドが脆すぎるのだ。

女に惚れるのは嫌だ。でも女には惚れられたい

女に惚れるのは嫌だ。しかし、女には惚れられたい。女に振り回されるのは嫌だ。しかし、女からは必要とされたい。女を素晴らしいと思うのは嫌だ。しかし、女には自分を素晴らしいと思ってほしい。 つまり、他人を愛するリスクは引き受けたくないが、他人から愛される利益だけは欲しい。 ずいぶん虫のいい話である。

欲しいのは女ではない。「女から選ばれる俺」だ。「彼女がいる俺」。「童貞ではない俺」。「恋愛経験のある俺」。「女性から性的価値を認められた俺」。 だから相手は誰でもいい。好きである必要すらない。自分を承認してくれさえすればいい。 承認欲求に女の存在を接続しているだけである。

「好きじゃないけど、非モテが通る道だから告白する」。 この一文の醜さは、相手の女性が完全に消えていることにある。彼女は何を感じるのか。彼女は何を望んでいるのか。彼女の時間は何なのか。彼女の恋愛感情は何なのか。そんなことは勘定に入っていない。

重要なのは「俺が非モテを脱出できるか」だけである。 つまり彼女は、一人の人間ではない。自己肯定感の補助輪である。 彼女ができれば、自信がつく。女性経験ができれば、自分を肯定できる。セックスできれば、男として安心できる。

知らんがな、である。 自分の自尊心くらい、自分で面倒を見ろ。なぜ赤の他人の女性が、お前のコンプレックス治療に付き合わなければならないのか。

「好きでもないのに告白する俺が辛い」の凄まじさ

しかも本人は、「好きでもないのに告白するのが辛い」と言う。 この一文には、こじれた自己愛の完成形がある。辛いのは俺。頑張っているのも俺。勇気を出すのも俺。成長するのも俺。傷つく可能性があるのも俺。 女は?背景である。 好きでもない男から「非モテ卒業イベント」の相手役に指名された女性の気持ちは、最初から勘定に入っていない。自分がその女性を利用しようとしている場面で、自分の苦痛を語っている。 加害する側が、自分の加害の辛さについて泣いている。 この自己憐憫には、なかなかのものがある。

さて、しかし、ここで話を終えると、「モテない男の自己愛は醜い」というだけの、ずいぶん安い話になる。 そもそもこんな醜悪な非モテの言動をやり玉に挙げて騒ぎ立てても、船内話である。 有料ゾーンでは、もう少し話を掘り下げてみよう。 この醜悪で間抜けな非モテの話はこれくらいにして、「恋愛から自己愛を取り除くことなど誰にもできない」という、すこし自分に返ってくる話を展開する。

→続きはnote記事「『彼女が欲しい』のに、女を好きではない男たち」

全文完
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