子供を産んだ私から、産まないと決めていた私へ
その河には、一度だけ渡れる橋がある。向こう岸に着いたら、もう戻れない。
結婚8年目にして子供を産んだ。と言うと、だいたい不妊治療をしていたと思われる。違う。子供はいなくていいと自分の意志で持たなかった。
いまはこの文章を、赤子を抱きながらスマホで打っている。秋雨の音とミルクの匂いに包まれた我が子は途方もなく愛おしいけれど、それでもなお、私は「子供を持つ」が当たり前の世界に首を傾げている。まとまらない思考を、そのままに書く。
仕事は順調で、夫とも仲が良い。お金を貯めて海外旅行することもあるし、夜中までおいしいものをたらふく食べて昼まで眠る日もある。至上の日々を出来るかぎり続けられれば、それでよかったはずだった。
はずだったのに、33歳ごろから頭の中にはいつもあの問いがあった。子供を持たなくて、ほんとうにいいの?子供が産めない年になってから後悔しない?
30代の女は生きてるだけで、産んだ人、産めなかった人、産まなかった人それぞれの本音が流れ込んでくる。子供がいる人、欲しい人のほうが、いない人より何倍も大変そうだ。なのに、目には見えない何かが「本当に子供を持たなくていいの?」と耳元で囁き続けた。その正体が社会的圧力なのか、単に未来の可能性がひとつ減ることへの恐れなのか、未だわからない。
でも、同時に自分に問う。こんなにも子連れが歓迎されない国で産んでいいの? 何台も優先エレベーターを見送らないと、ベビーカーが乗せてもらえない東京で?
そんな「産むか、産まざるべきか」の反復横跳びの果てに、なぜ産むことにしたのか。申し訳ないけど、この先に役に立つ話はない。すごく曖昧な、捉えどころのない言葉の連なりでしかない。
私が子供を持とうと思った理由のひとつは、夫となら大丈夫だと思えたから。
当初、夫には「一緒に苦しんでくれるなら子供を考えてもいいよ」と話していた。子供と引き換えに私が失う睡眠や自由を、あなたも等しく失ってください。子育てのベストパートナーとは、一緒に地獄に堕ちてくれる人だと信じていたから。
しかし夫が私にした提案は、二人で地獄から逃れる方法を探して徹底的に足掻くことだった。
私の妊娠中、夫は二人とも睡眠時間が取れるシフト制の育児スケジュールを作成し、健診に毎回付き添い、役所に保活について聞きに行き、私が床に落としたものを片っ端から拾い(そう、お腹が大きくなるとしゃがむことすらままならない)、長谷川あかりのレシピを作りまくり、有象無象の育児便利グッズから最適なものを選び、複雑怪奇な作りのプーメリーを組み立て、赤子の服を水通しし、出生届をはじめとする全ての書類仕事を担い、いつのまにか「赤ちゃんのための家」を完成させていた。
出産の主体者が私なら、育児の主体者は完全に夫だった(夫は夫で「父親=子育てに消極的」というステレオタイプに苦しめられるのだけど、それはまた別の話)。
おかげでまだ3時間おきにミルクを欲しがる赤ん坊を育てながら、夫婦共にがっつり寝て、私は本を読み、編み物をし、この文章を書いている。今のところは、自分の人生を子育てに全て捧げずにいられる。逆に言えば、ここまでしないと女性は強制的に母親に転生させられてしまうのだと、強烈な現実があることを実感した。
もうひとつの「子供を持とうと思った理由」は、シンプルに悩み続ける体力が尽きたからだ。情けないことに。
子供を持たないというのは、あえてそう選択した人として扱われる。
友達が産み、同僚が産み、後輩が産む。みんなが「お母さん」になっていく中で、自分だけがならない理由を持ち続けるのは意外と辛い。かと言って周りに流されて産もうというのは、あまりにも命に対して無責任な気がした。
果てのない迷いの中、いつも思い浮かぶのは大きな河のイメージだった。
泳ぎきれないほどの大きな流れに、一度だけ渡れる橋がある。両岸には子供がいない私と、子供がいる私がそれぞれ暮らしている。橋の真ん中で立ち尽くした私は、両岸の自分をじっと見つめている。
どっちの人生を選べば、失敗しないのか。自分なりの正解を見つけたくて橋の真ん中で立ち続けた。子供がいて幸せな自分、子供を産んで後悔する自分、望んでも授かることができない自分、二人暮らしを満喫する自分、歳をとってから子供が欲しかったことに気づく自分。まるで映画の「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」のマルチバースの世界のように、あらゆるパターンの人生を心の中で生きた。
そんなふうに橋の真ん中で立ち尽くし疲れて果て、どうせなら自分たち「人間」という種族がどういう生き物なのか、ゼロからしっかり見届けてやろうじゃないかと子供を持つことにしたのだった。
こうして流れ着くように 「子供がいる人生」の岸に行ってしまったけれど、いざ暮らしてみたら案外楽しい。すくすくと成長する赤ん坊は見てて飽きない。人間って面白い生物だなと素直に思う。
私が子供を抱きしめたり、ミルクを作ってたりする合間に、ふと対岸を見れば、子供のいない私がのんびり美術館をはしごしたり、仕事の締め切りに追われていたりする。「子供のいない私」は消滅したのではなく、どこかでちゃんと生きていて、達者にやっている気がする。
限界まで向き合ったからこそ、子供がいる自分も、いなかった自分もぜんぶ抱えて生きていける。
子供がいる、いない。その間に流れる河はなくならない。橋も、一度しか渡れない。それでも、向こう岸にいる自分に手を振ることはできる。そんなふうに生きていけたらと思う。
なんてここまで書いたけれど、これってぜんぶ今現在のポジショントークでしかない。
子供を授かれるのか、無事に産めるのか、キャリアへの影響、無痛分娩へのアクセスのしやすさや金銭状況などなど。運がよかったからこんな呑気なことを言ってられるだけだ。この先はどうなるかわからない。
だって出産も子育ても、一度テーブルについたら絶対に降りられない博打だから。
そんな賭けを片方の性別だけに押し付けようとする世界はやっぱり異常だ。この気持ちは子供を産んでも変わらない。母親になっても、どんなに我が子が愛しくても、この違和感に馴染みたくないという今の私を、ここに置いておく。



