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マザコンを卒業すると、男は優しくなるーー「世話される側」を降りた男に、なぜ気遣いが生まれるのか

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「マザコン」という言葉は、たいてい母親との距離が近い男性を揶揄するために使われる。 母親と頻繁に連絡を取る。母親の意見を気にする。実家によく帰る。何かあると母親に相談する。 でも、私は本当の意味で厄介なマザコンは、そこではないと思っている。 母親と仲がいいこと自体は、別に悪くない。親孝行でもいい。毎週電話したっていい。実家が好きでもいい。母親の料理が好きでもいい。 問題は、母親との物理的な距離ではない。

「誰かが自分の世話をしてくれる」という世界観から抜けているかどうか。 こちらのほうが、ずっと重要だと思う。 子どもの頃は、それでいい。腹が減れば、誰かが食事を用意してくれる。服はいつの間にか洗われている。シャンプーがなくなれば補充される。体調が悪ければ心配してもらえる。忘れ物をすれば注意される。 不機嫌なら「どうしたの?」と聞いてもらえる。季節が変われば服や布団が変わり、学校の予定は誰かが把握し、病院へ行く必要があれば誰かが手配する。 生活のかなりの部分を、自分より先に誰かが考えてくれる。子どもは、そうやって生かされる。

問題は、身体だけ大人になって、この世界観が残ることだ。 母親がやっていたことを、妻がやる。妻がいなければ恋人に求める。職場では女性社員に求める。店では女性店員に求める。 相手は変わっているのに、「女は俺より少し先に、俺が何を必要としているか気づいてくれるものだ」という前提だけが残る。 私は、こちらのほうがよほど本質的な意味での「マザコン」だと思う。

母親が好きなのではなく、「世話される自分」から降りられない

ここで言うマザコンは、「母親が好き」という意味ではない。 自分の生活、自分の健康、自分の感情、自分の機嫌、自分の孤独。本来なら大人になる過程で少しずつ自分が引き受けていくものを、どこかで「親しい女性が管理してくれる領域」として残している男のことを言う。 母親から物理的には離れていても、マザコン的な関係性は残る。実家を出て20年経っていても、妻が母親の役割をそのまま引き継いでいれば、構造は変わっていない。

厄介なのは、本人がそれを依存だと思っていないことだ。 洗濯物が洗われている。冷蔵庫に食べ物がある。トイレットペーパーが補充されている。子どもの予定が把握されている。親戚への贈り物が用意されている。誰かの誕生日を誰かが覚えている。旅行へ行けばホテルが取られている。家族が病気になれば必要なものが準備される。 それを、まるで自然現象のように受け取っている。

雨が降る。春が来る。タオルが交換される。これらが同じカテゴリーとして処理されている。 しかし、タオルは自然には交換されない。誰かが気づいている。誰かが洗っている。誰かが畳んでいる。誰かが収納している。 ここで問題なのは、夫婦間でどちらが家事を何割やっているかという単純な話ではない。 「自分が何もしなくても生活は回る」という感覚が、どこから来ているのか。 そこにある。

母性的ケアの核心は、「先回り」にある

母性的なケアの核心は、料理や洗濯そのものだけではない。もっと大きいのは、本人より先に気づくということにある。 「疲れてない?」「これ、必要じゃない?」「薬飲んだ?」「明日早いんでしょ?」「最近ちょっと元気ないね」 本人が言語化する前に、誰かが状態を察知し、必要なものを用意し、問題になる前に処理する。 子どもの頃には、それが必要だった。子どもには、自分の身体や感情や生活を完全に管理する能力がないからだ。

しかし大人になってもこの感覚が強く残ると、親しい女性に対して、「俺が説明しなくても分かってくれるはずだ」という期待を持つようになる。そして、分かってもらえないと、それは不満として感じられる。 「普通、気づくだろ」「それくらい察してくれてもいいじゃん」「冷たいよね」 面白いのは、本人がこれを「世話を要求している」とは思っていないことである。むしろ「思いやりの問題」だと思っている。 しかし実際には、自分の状態を把握する仕事まで、相手に外注している。

疲れているなら、自分で気づく。 腹が減っているなら、自分で食べる。 体調が悪いなら、自分で病院を探す。 寂しいなら、まず自分が寂しいことを認識する。 傷ついているなら、「俺はいま傷ついている」と自分で理解する。 大人になるとは、そういう「自分を察する仕事」を、自分へ戻していくことでもある。

母子癒着を断ち切るのは、母親だけの仕事ではない

母子癒着という言葉を使うと、どうしても「息子を手放さない母親」という話になりやすい。もちろん、そういう関係もあるだろう。 ただ、ある年齢を超えたら、母親がどうだったかだけでは説明できない。息子側も、自分でそこから出る必要がある。

母親が先回りしてくるなら、「自分でやるよ」と言う。食事を作ってくれるなら、ときには自分が作る。自分の予定を管理しようとするなら、自分で管理する。 何かあるたびに母親の判断を仰いでいたなら、自分で決めて、自分で失敗する。 これは母親を拒絶することではない。むしろ、母親を「自分の世話をする人」という役割から解放することだ。 そして同時に、自分自身を「世話される息子」という役割から解放する。

母子癒着は、母親だけが作っているとは限らない。息子側にも、その関係に居座り続けるメリットがある。楽だからだ。 誰かが気づいてくれる。誰かが考えてくれる。誰かが片づけてくれる。誰かが心配してくれる。失敗しても、最後には受け止めてくれる。 そこから出るということは、その快適さを手放すことでもある。 自分で決める。自分で失敗する。自分で片づける。自分で寂しさを引き受ける。自分で自分の機嫌を直す。 だから、本当の意味での親離れには、少し痛みがある。 でも、そのプロセスを通った男は、大きく変化する。生活の見え方が変わる。他人の見え方が変わる。そして、女性との関係も変わる。 私は、ここに「優しさ」の一つの起源があると思っている。

マザコンを卒業した男は、生活能力が高い

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