なぜ、オジは疎まれ、忌み嫌われるのか
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最近、「オジ」に対する風当たりが強い。 オジアタック。説教。自慢。距離感のおかしさ。若い女性への執着。頼んでもいないアドバイス。 SNSを眺めていると、「オジ」というだけで、一つの迷惑行為のカテゴリーになりつつある。
もちろん、歳を取った男というだけで疎まれるわけではない。 不思議なのは、同じくらいの年齢でも、露骨に疎まれるオジと、まったく疎まれないオジがいることだ。ちゃんとオジなのに、若い人からも自然に誘われる。女性のほうから会いたがる。年齢差があっても妙な緊張感がない。若者に無理に合わせているわけでもないのに、なぜか人が寄ってくる。
なぜなのだろう。 若く見えるからか。金があるからか。社会的地位があるからか。話がうまいからか。 たぶん、それだけではない。むしろ金や地位があっても猛烈に疎まれるオジはいる。 逆に、特別な肩書きがなくても人が自然に寄ってくるオジもいる。 では、何が違うのか。 いろいろなオジを見ていると、一つの共通点が見えてくる。
疎まれるオジは、自分の人生の後始末を、他人にやらせようとしているのである。 自分の自尊心、自分の孤独、自分の機嫌、自分の欲望、自分が報われなかったこと、自分が思い描いていた人生と現実とのズレ。そして、自分が老いていくことへの不安。 そういうものを自分の問題として十分に引き受けきれず、周囲、とりわけ女性との関係の中で処理しようとする。
もちろん、人間は誰だって他人に支えられて生きている。弱音を吐くことも、慰めてもらうことも、誰かに救われることもある。問題は依存することそのものではない。自分の感情の処理を、相手の義務であると独り決めして疑わない傲慢さにある。 オジアタックは、その構造がもっとも分かりやすく露出する場面になる。
オジアタックの問題は、年齢差ではない
オジアタックの問題は、年上の男が年下の女性を好きになることではない。年齢差そのものでもないし、自分から女性を口説くこと自体でもない。50代の男が20代や30代の女性を好きになること自体を禁止することなどできないし、する必要もない。 問題は、その欲望をどう扱うかにある。
典型的なオジアタックには、妙な非対称性がある。自分が相手に近づくときには、「一人の男」として対等な自由を求める。 好きになる自由、誘う自由、好意を伝える自由、距離を縮めようとする自由。それらはすべて「恋愛なんだから自由だろう」という私人の論理で行われる。 ところが拒絶されると、急に話が変わる。「客」「年長者」「先輩」「上司」「金を払う側」「評価する側」といった、自分が社会の中で持っている少し強いポジションへ戻る。
踏み込むときは私人なのに、拒絶されたら社会的ポジションへ戻る。欲望するときは対等なのに、傷ついたら評価者になる。そして最後には、「好意を踏みにじられた」と被害者の席まで確保する。 オジアタックが疎まれるのは、この構造が透けて見えるからだ。
自分には、相手の領域へ踏み込む自由がある。しかし相手には、ただ断る自由があるわけではない。自分を傷つけず、恥をかかせず、感じ悪くもならず、十分な感謝を示しながら、上手に断ることを要求する。 つまり、自分の欲望には自由を、相手の拒絶には礼儀を、というわけだ。 しかも、その「礼儀」の基準を決めるのも自分である。これでは拒絶する側に正解がない。
優しくした。ご馳走した。時間を使った。勇気を出して誘った。好きになった。だから、何かを返してほしい。少なくとも、俺を傷つけない形で処理してほしい。 好意を差し出した瞬間、それを一種の債権に変えてしまう。 しかし、ここで改めて言うまでもなく、好意は請求書ではない。
頼まれてもいない好意を差し出したことで、相手に返済義務が生まれるわけではない。 自分には好きになる自由がある。しかし相手にも、喜ばない自由、応えない自由、断る自由がある。気持ち悪がる自由だってある。 そして重要なのは、相手のその自由は、こちらが傷ついたからといって消滅しないということだ。 ここを理解できるかどうかは、かなり大きい。
歳を取ると、「ポジション」が身体に染みつく
では、なぜこういうことが起きるのか。 一つには、歳を取るほど、人は社会の中で何らかのポジションを持つようになるからだ。役職がつく。部下ができる。後輩が増える。収入が上がる。店では「客」になる。仕事では「発注する側」「評価する側」「決める側」になる。 若い頃より、自分の言葉を聞いてもらえる場面が増える。自分の都合に周囲が合わせてくれることも増える。それ自体は悪いことではない。社会は役割で動いているし、責任が増えれば権限も増える。
ただ、その環境に長くいると、知らないうちに、「自分の希望は、他人によってある程度尊重されるものだ」という感覚が身体に染み込んでいく。 部下なら話を聞く。店員なら愛想よくする。取引先なら返信する。後輩なら誘いを無下にしない。会議では自分が話せば周囲が黙る。店では金を払えば丁寧に扱われる。 その経験が何十年も積み重なると、「人が自分に配慮する」という状態が、いつの間にか自分の人格に対する評価のように感じられてくる。
そして、その感覚を私的な関係にまで持ち込んでしまう。 ここで事故が起きる。 恋愛や友情には、本来、役職がない。誰かを好きになったからといって、相手がこちらを見る義務はない。金を持っていても、社会的に偉くても、年上でも、仕事ができても、目の前の人から見れば、「だから何?」である。 この「だから何?」に耐えられるか。実は、ここに年齢の重ね方がかなり出る。 社会で力を持つことと、私人として魅力があることは、まったく別の話だからだ。
疎まれるオジは「偉いオジ」だけではない
ここまでなら、話は簡単である。社会的に成功して偉くなった男が、その権力をプライベートにも持ち込んで嫌われる。確かに、そういうオジはいる。 でも、それだけでは説明できない。 オジアタックをする男が、みんな社会的に成功しているわけではないからだ。 むしろ逆の方向から、同じ場所にたどり着く人もいる。
仕事でそれほど評価されなかった。金もない。肩書きもない。華やかな人生でもなかった。女性からたくさん好かれてきたわけでもない。若い頃に思い描いていた「自分はこうなるはずだった」という人生と、現実とのあいだに、少しずつ距離ができていった。 そして、こうした不全感を抱えたまま中高年に至った男性は、時に、妙に濃密なロマンティシズムを抱えてしまう。 「いつか誰かが、本当の俺を見つけてくれる」という物語である。
若い頃なら、それも青春で済む。まだ人生の選択肢も多く、自分が何者になるかも決まっていない。「いつか自分を分かってくれる人が現れる」という夢には、それなりの瑞々しさがある。 しかし、その物語が何十年も更新されないまま残ると、もうめっきり淀んでしまう。 社会は俺を評価してくれなかった。仕事でも思ったほど成功しなかった。女にもモテなかった。人生は想像していたほど華やかではなかった。でも、そんな俺の本当の優しさを、彼女だけは分かってくれるかもしれない。肩書きでも金でも見た目でもなく、「本当の俺」を見て選んでくれるかもしれない。
こうした物語を純粋に美しい、と感じる感性が存在するのである。少なくとも、社会的ポジションを振りかざす男とは正反対である、というエクスキューズもつく。 しかし、ここには、別種の粘り気、厭らしさ、重さがあることに気をつけなければいけない。
この男は、目の前の女性を好きになっているのではない。その女性に選ばれることで、これまでの人生まで肯定してもらおうとしているのである。 俺にも価値があった。俺は間違っていなかった。世間には評価されなかったけれど、本当の俺を分かる人はいた。 それを、恋愛によって証明しようとする。 つまり、社会で得られなかった承認を、恋愛で回収しようとしている。 目の前の女性一人に、人生の敗者復活戦の審査員をやらせることになる。 これは、うざい。なぜ、うざいのか?
「条件ではなく、本当の俺を見てほしい」というロマンティシズム
このタイプのロマンティシズムには、妙な純愛観がくっついている。 「金や肩書きで男を選ばない女性こそ、本当の女性だ」「年齢差なんて、本当に愛し合っていれば関係ない」「条件ではなく、人間そのものを見てほしい」 言っていることだけを見れば、美しい。 しかし、よく見ると奇妙な非対称性があることに気をつけよう。
自分は相手の若さや容姿や女性性に惹かれている。若いから、美しいから、かわいいから、女性として魅力的だから、その人を好きになっている。 しかし相手には、自分の年齢、容姿、経済力、社会的魅力といった条件を超越して、「本当の俺」を見てほしい。 自分は相手を条件込みで欲しがっているのに、相手には条件を超越して自分を愛することを要求する。 なかなか虫がいい。
そして拒絶されると、この淀んだロマンティシズムは簡単に怨念へ反転する。 「結局、女は金なんだな」「イケメンじゃないとダメなんだろ」「女は本当の優しさを見ない」
ここで面白いことが起きる。 社会的に強いオジは、「俺ほどの男を、なぜ選ばない」と思う。 報われなかったオジは、「こんな俺を選んでくれるのが、本当の愛ではないのか」と思う。 正反対に見える。 しかし、やっていることは同型だ。 自分の自己評価の問題を、女性に解決してもらおうとしている。 前者は、肥大した自尊心を守らせる。後者は、傷ついた自尊心を救わせる。片方は「俺の価値を認めろ」であり、もう片方は「俺の価値を見つけてくれ」である。 どちらにしても、女性の仕事が多い。
では、なぜ「若い女」なのか
ここで、もう一つ疑問が出てくる。 なぜ、こういうオジは、とりわけ「若い女」にこだわるのだろう。 もちろん、若い女性を魅力的だと思う男性がいること自体は不思議でもなんでもない。若さや外見に惹かれることと、ここで書いている問題は分けて考えたほうがいい。 気になるのは、単に「若い女性が好み」という範囲を超えて、若い女性に選ばれることそのものに、異様に大きな意味を与えるオジである。 そこには、性的な欲望だけでは説明できないものがある。
若い女性は、ときに「まだ自分は終わっていない」という証明になる。 50代になった。髪も減った。腹も出た。体力も落ちた。会社での先もだいたい見えた。人生でできることと、もうできそうにないことの区別もついてきた。若い頃には無限にあるように見えた可能性が、実際には有限だったことも分かってくる。 歳を取るというのは、単に身体が老いることではない。 「自分には、もう起こらない人生がある」と知っていくことでもある。
なれなかったものがある。行かなかった場所がある。選ばなかった道がある。選ばれなかった自分がいる。 若い頃なら、「これから」があった。 中高年になると、「これまで」が増えていく。 この変化を引き受けるのは、案外難しい。 そこで、若い女性が登場する。 自分より20歳、30歳若い女性が、自分を男として見る。自分との食事を楽しむ。自分からの誘いに応じる。まして、自分を恋愛対象として選ぶ。 その瞬間、「俺はまだ、こちら側にいる」と錯覚することができる。
老いる側ではなく、まだ選ばれる側。過去になっていく側ではなく、まだ何かが始まる側。 「もう若くない自分」を認めなくてもいい。 だから若い女性への欲望には、ときどき、女性そのものへの欲望以上に、自分自身の若さを取り戻したい欲望が混ざる。 若い女性が欲しいのではなく、若い女性に欲しがられる自分が欲しい。 ここを分けて考えると、いろいろなことが見えてくる。
若い女性を連れて歩きたがる。若い女性と飲んでいることを人に話したがる。「俺、なぜか若い子とは話が合うんだよね」と言いたがる。「全然その歳に見えない」と言われると妙に嬉しそうにする。 若い女性が、自分の老いを否定してくれる証人になっている。 だから、若い女性に選ばれないことが、普通の失恋以上に痛くなる。 「あなたは恋愛対象ではありません」という拒絶が、本人の中では、「あなたはもう若くありません」「あなたはもう、そちら側ではありません」という宣告のように響いてしまう。
もちろん、相手はそんなことを言っていない。 ただ、その人を選ばなかっただけである。 しかし、自分の老いへの不安を女性との関係で処理していると、一つの拒絶に人生全体の意味が乗ってしまう。 だから執着する。 だから傷つく。 そして、怒る。
同年代の女性は「鏡」になる
では、なぜ同年代の女性ではいけないのか。 もちろん、すべての男性がそう考えるわけではない。しかし、若い女性ばかりを追うオジを見ていると、同年代女性には一つの「不都合」があるように思う。
同年代の女性は、自分と同じ時間を生きている。 彼女にもキャリアがある。失敗がある。結婚や離婚があるかもしれない。子育てがあるかもしれない。親の介護があるかもしれない。身体の変化もある。若い頃の夢と現実の差も知っている。 つまり、こちらが「若者の延長」として振る舞おうとしても、同年代の女性の存在そのものが、「いや、私たち、もうそれなりに歳を取りましたよ」という現実を映してしまう。
同年代の女性は、鏡になるのだ。 自分が相手に老いを見るなら、相手からも同じように自分の老いが見えている。 自分が相手を「年齢」で査定するなら、相手にも自分を年齢込みで見る目がある。 自分だけが「まだまだ若い側」に居続けることはできない。 これは、自分の加齢を十分に引き受けられていない人には、少し居心地が悪い。
一方、若い女性には別の幻想を投影できる。 まだ自分には可能性がある。 まだ新しい人生が始まる。 まだ男として現役だ。 まだ若い世界とつながっている。 まだ「オジ」ではない。 つまり、同年代の女性が鏡だとすれば、若い女性はタイムマシンになりうる。
彼女といることで、自分まで若い側へ戻ったような気がする。 しかし当然ながら、若い女性はタイムマシンではない。 彼女には彼女の時間が流れている。 くたびれた男の失われた20年を返すために存在しているわけではない。
若い女性は「勲章」にも「敗者復活戦」にもなる
若い女性に何を求めるかは、オジが歩いてきた人生によって少し違う。 社会的に成功したオジにとって、若い女性は自分の成功を確認する勲章になりうる。 「この年齢でも、こんな若い女性に選ばれる俺」というわけだ。 金もある。地位もある。仕事でも成功した。そして若い女性にも選ばれる。 若い女性の若さや美しさが、自分の社会的価値に加算される。
一方、社会的にそれほど報われなかったオジにとって、若い女性は別の意味を持つ。 こちらは勲章というより、人生の逆転装置である。 仕事では勝てなかった。金持ちにもなれなかった。若い頃もモテなかった。人から羨ましがられるような人生ではなかった。 でも、最後に若くて魅力的な女性から選ばれれば、「結局、俺の人生も悪くなかった」と思えるかもしれない。
だから、「彼女だけは本当の俺を分かってくれる」という物語が生まれる。 若い女性一人に、過去の敗北を全部ひっくり返してもらおうとする。 社会的に成功したオジにとっては、若い女性が勲章になる。 報われなかったオジにとっては、若い女性が救済になる。 老いを受け入れられないオジにとっては、若い女性が若さの証明になる。 役割は違う。 でも共通しているのは、目の前の女性そのものより、その女性に選ばれた「自分」が重要になっていることだ。
だから「若い女」という属性にこだわる。 その人でなければならないのではない。 「若い女性に選ばれる俺」でなければ成立しない物語だからだ。
そして、マザコンをこじらせたまま中高年になる
さらに、ここにもう一つの問題が重なる。 女性に対する、無自覚な「母性」の要求である。 かなり乱暴に言ってしまえば、マザコンをこじらせたまま、中高年までそのまま生きてしまった。 オジアタックに走る男には、そうとしか見えないものがある。
ここでいうマザコンとは、「母親と仲がいい」とか「実家暮らしが長い」とか、そんな表面的な話ではない。母親を大事にしている男性を揶揄したいわけでもない。 自分に近い女性は、自分の感情を察し、受け止め、傷つけないように扱い、最終的には自分を受容してくれるはずだ、という期待を手放していないという関係性の問題だ。
自分の気持ちを察してくれる。不機嫌なら機嫌を取ってくれる。傷ついたら慰めてくれる。言葉が足りなくても意図を汲んでくれる。多少身勝手でも、最後には受け入れてくれる。そして拒絶するときですら、自分が傷つかないように拒絶してくれる。 母親、妻、恋人、女性の同僚、部下、店員。相手は変わっているのに、女性に期待する役割だけが、どこかで母親のままなのである。
これが厄介なのは、本人には「世話を要求している」という自覚がほとんどないことだ。むしろ、それを「女性らしい気遣い」や「人としての優しさ」や「最低限の礼儀」だと思っている。 だから拒絶されたとき、「そんな言い方しなくてもいいだろう」「もう少し気持ちを考えてくれてもいいだろう」「人の好意をそんなふうに扱うのか」となる。 彼が怒っているのは、拒絶されたことだけではない。 拒絶された自分が、十分にケアされなかったことにも怒っている。
ここに、オジアタック特有の甘えがある。 自分から好きになった。自分から近づいた。自分から誘った。そして、自分が傷ついた。なのに、その傷の後始末まで相手にやらせようとする。 誘うのは俺。断るのは君。でも、俺が傷つかないように断るのも君の仕事。 ずいぶん都合がいい。
女性側からすれば、好意を受け取って、期待は持たせず、しかし相手の顔は潰さず、明確に断りながら冷たくはならず、最後には相手の自尊心まで守らなければならない。 恋愛というより、感情のカスタマーサポートである。 そして、ここまで来ると、若い女性に背負わせている役割がかなり多いことが分かる。 恋人。若さの証明。社会的成功の勲章。人生の敗者復活戦。自己肯定感の供給者。そして、自分を無条件に受容してくれる母親。 一人六役くらいある。 そりゃ、重い。 しかも本人は、それを「純愛」だと思っている。
「年齢なんて関係ない。僕は彼女という人間を好きになっただけだ」 もちろん、本当にそういう恋愛もある。 しかし、本当に「彼女という人間」を好きなのであれば、その人の自由も同じだけ重要なはずだ。 自分を選ばない自由。年齢差を気にする自由。同年代の男性を好きになる自由。自分を「素敵な年上の男性」だと思わない自由。 その自由まで含めて相手を見ることができるか。 ここで、相手を愛しているのか、自分を救済するための物語に相手を配役しているのかが分かれる。
「偉い俺」と「かわいそうな僕」は、案外近い
ここまで来ると、一見まったく違うオジが、同じところでつながってくる。 社会的なポジションを振りかざすオジ。 報われなかった人生を恋愛で救済してもらおうとするオジ。 若い女性によって自分の老いを否定したいオジ。 女性に母性的な受容を求めるオジ。 表面は違う。
一人目は偉そうだ。二人目は卑屈かもしれない。三人目は老いに怯えている。四人目は甘えている。 でも、根っこには共通したものがある。 「俺の気分、俺の自尊心、俺の人生は、誰かが適切に扱ってくれるものだ」という期待である。
社会的に成功した男なら、「俺ほどの人間は、相応に扱われて当然だ」になる。 報われなかった男なら、「こんな俺だからこそ、誰か一人くらい無条件に分かってくれてもいい」になる。 老いを受け入れられない男なら、「若い女性に選ばれることで、まだ自分は終わっていないと確認したい」になる。 母性的なケアを求める男なら、「好きなら、俺の気持ちくらい察してくれるだろう」になる。 言葉は違う。でも、すべて自分の内側で処理すべきものの一部を、他人の担当業務にしている。
「偉い俺」と「かわいそうな僕」は、案外近い。 どちらも、自分の感情や自己評価を自分一人で持ちきれない。だから他人に持たせる。とりわけ女性に持たせる。そして、持ってくれなかった女性を「冷たい」「失礼だ」「打算的だ」「思いやりがない」と断罪する。
もちろん、人間は完全に自立した存在ではない。誰だって誰かに甘えるし、恋人には弱いところも見せる。むしろ親密さとは、そういう相互依存を許せる関係でもある。 しかし、相互依存と「お前が俺をケアして当然」は違う。 前者には、相手にも同じだけ自由がある。後者には、強制された役割しかない。 そしてオジアタックで問題になるのは、多くの場合、この役割の押しつけなのである。
俺の価値を認める女。俺の孤独を救う女。本当の俺を見抜く女。俺の若さを証明する女。俺の傷を優しく扱う女。俺の好意に感謝する女。 自分が思い描いた物語の中に、目の前の女性を勝手にキャスティングする。 女性は、その物語に出演することを了承していない。 それなのに台本どおりに動かなければ、「最近の女は」となる。 疎まれているのは、年齢そのものではない。 その愚劣な思い違いなのだと思う。


